季節の花に人生を重ねて  ユリ(百合)

季節の花
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・季節の花に人生を重ねて

(7月の花より)
 ユリ(百合)

夏の花と呼ばれますが、種類が多く、開花時季は5月から9月までと幅が
あります。花暦では7月はユリとクチナシですが、このユリは7月に花が咲く
ヤマユリを想定してのこと。万葉集にユリとあるのもヤマユリを指していま
す。日本特産のヤマユリは花が直径20~25センチとユリの中では最も大
きく、ユリの王者とも呼ばれています。「茎細く花が大きく、そのため花が
揺り動くことから揺りという」(日本釈名)とありますように、その名は花
が風に揺れる美しさから生まれたそうです。
 ユリは海外でも自生し、世界の花の中でも最も古くから知られた花の一つ
です。日本でも種類が豊富でユリの世界的な産地です。スカシユリ、タケシ
マユリ、テッポウユリ、ヒメユリ、オニユリなどなど。一番先に開花するの
はスカシユリで5月に咲きます。タケシマユリやテッポウユリは6月に。ヒ
メユリは7月。オニユリやカノコユリは8月、九月になるとタカサゴユリが
開花します。
 ユリは鑑賞するだけの花ではなく、球根は食用にもなります。生薬として
も用いられてきました。球根は鱗片の集まりで、鱗片は葉の基部に養分が蓄
えられ、肥大化したものです。実生で最初一枚の葉がでると、一片の鱗片が
出てきます。ついで葉が二枚、三枚と増えるにしたがって、鱗片も同枚数を
増やします。百枚の葉が出ると鱗片も百枚と合わさって出来るため、「百、
合う」の意味で百合の言葉が充てられました。鱗片には養分が含まれたこと
から古くから食用としても栽培されています。
百合は寒さに強く、夏の開花までに様々な苦難を乗り越えています。秋に
球根を埋めますと、細かい根を伸ばし、それぞれの養分を吸収しながら長い
冬に耐えて力を蓄え続け、春が来ると蓄えた力を新芽に注いで、土中深くか
ら一気に地上に芽吹かせるのです。人生に例えるなら、苦労はやがて実を結
ぶということでしょうか。
可憐な姿から「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」と日本では親し
まれてきました。
花言葉は「荘厳」(ヤマユリ)オニユリ(「賢者」「富と誇り」)など様
々ですが・・・黒百合の花言葉は「呪い」です。

これは戦国時代、武将(佐々成政)の話しから来ているようです。


富山城の主・佐々成政(さっさなりまさ)は名を馳せるために秀吉討伐を
もくろんでいました。そこで、討伐の約束を交わした徳川家康を訪ねるため、険しい佐良峠(ざらとうげ)を越えました。しかし、苦労虚しく家康の心
変わりにより成政の野望は打ち砕かれてしまいます。
城では成政の最愛の姫・早百合が彼の帰りをしおらしく待っていました。
しかし、その溺愛ぶりに嫉妬した側室たちの悪い計らいにより、やっと城に
帰ってきた成政は早百合の不貞と裏切りを聞かされてしまいます。その嘘を
信じてしまった成政は激昂にまかせ、真実を確かめることもなく、一途でい
た早百合を斬ってしまいました。
早百合は死の間際、「もしも立山にクロユリの花が咲いたら、佐々家は滅
亡する」と言い残します。そして早百合の怨念は、息絶えた一本榎の木に留
まり、ある時は鬼となり、ある時は火の玉になり現れることとなります。
やがて、立山に一輪のクロユリが咲きました。それからというもの、成政
の不運は続きます。決定的になってしまったのは、秀吉にクロユリを差し入
れたこと。そのクロユリが、秀吉の正室・淀殿の策略により秀吉の正妻・北
政所の怒りを買い、成政は失脚、秀吉に切腹を言い渡されてしまうのです。
絶望した成政は自害し、早百合の予言どおり、佐々家は滅んでしまいまし

た。

 

 

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